わたし と かぞく の

かわらさんと家族の、いつか忘れたくないこと

息子の香りを瓶に詰めても

頭のてっぺんは、誰かが持ち帰るマクドナルド。
おでこは久しぶりにベランダで悠々と干したお布団の匂い。
眉間はちょっと香ばしい。押し入れの中みたいな匂いがする。

 

9月に生まれた息子は、その全身をほやほやの温かい香りで包んでいた。春の空気を抱きしめられる形にしたら、きっと息子のように出来上がると思う。

特に眠っているときはその温かい匂いがいっそう濃く感じられて、それはそれは愛おしい。その匂いをかいでいると、誰しもがつい「かわいいね」と言いたくなるのだ。

 

息子がおっぱいとミルクを飲んで眠るをひたすら続ける間に、全身に満ちていた春の香りは、おいしそうな牛乳パンみたいな香りに変わった。

その頃には息子の腕も脚も、香りのままの見た目になった。それを抱く私も夫も、いまに焼かれようとする真っ白いパンの赤ちゃんを思い出した。でも息子の腕や脚は、触ってみると発酵したパン生地に比べてもっとパツパツとしていて、巨峰とか水風船とか、そういった類のものを思わせた。

 

3月に入り、ふよふよにした米がゆを食べられるようになると、我が家の“牛乳パン屋さん”はたちまちシャッターを下ろした。全身をまるっとオーラのように包んでいた甘い香りは散らばって、からだのパーツごとに変化していった。

頭のてっぺんは、誰かが持ち帰るマクドナルド。
おでこは久しぶりにベランダで悠々と干したお布団の匂い。
眉間はちょっと香ばしい。押し入れの中みたいな匂いがする。

 

米がゆと野菜に加えて、肉や魚を食べるようになってからは、息子は全身から給食の匂いを放つ。

給食の匂いは本当に不思議だ。カレーの日も、ジャージャー麺の日も、鮭の西京焼きの日も、からだに染みて家に帰る頃には、みんなおんなじ匂いになっている。

息子のそれも同じで、パンがゆを食べても、細かくしたパスタを食べても、ブリでも豚肉でも、息子にまとわりつく香りは毎日変わらなかった。

 

鼻はちょっと酸っぱい。プレーンのヨーグルトみたいな匂い。

頬はまだ、牛乳パンの匂いがする。すっかり日に焼けてしまったから、焼いたあとのパンみたいだ。

耳はかごうとすると身をよじるのでよくわからない。

目じりにはいつも涙が雪ソリの跡みたいに残っていて、そら豆を茹でたときみたいな臭いがする。

 

口と首は、さっき食べたものの匂いがする。たまに食べかすがそのまま残っていることもあって困るから、あまり鼻を近づけないようにしている。

腕と脚はおでことおんなじ、干した布団の匂い。たぶん、ベビーカーや抱っこ紐から宙へ投げ出して、思い切り干されているからだ。久しぶりに外へ干してもらった布団も、同じような気持ちかもしれない。

お腹の香りは、日に焼けて傷んだ本みたい。お腹は太陽の光にはまだ出会ったことがないはずだけど、きっと日の光に焦がれているうちに待ちきれなくてそんな匂いになったのだ。

 

息子はいまも成長している。生まれたときよりも、昨日よりも、さっきよりももっともっと。

きっと気が付いたら頬の牛乳パンの匂いはなくなって、目じりにしがみついたそら豆みたいな臭いをかぐこともなくなるのだと思う。

 

いまの匂いを閉じ込められるなら、とびきりかわいい缶や瓶に詰めて、きっと死ぬときまで大事に取っておく。「おでこ」「ほっぺ」「おなか」と丁寧にラベリングをして、大事に大事に取っておく。

いつかそういう”香りのタイムカプセル”みたいな技術も出てくるのだと思う。でも、昔保管した香りをいつか開封したとき、私の感想はきっと「こんなんだったっけ?」なんだろうけど。

 

私は絶対にいまの息子の匂いを忘れるから、この文章をタイムカプセルにする。そうしたら、これからエレベーターでマクドナルドの袋を持った人に出会っても、「息子が赤ちゃんのときの頭のにおいだ」って思えるから。

 

いつかキッチンでそら豆を茹でて、息子が「臭い!」と言ったら、「これあなたの涙とおんなじ臭いだよ」って教えよう。