わたし と かぞく の

かわらさんと家族の、いつか忘れたくないこと

朝のこと

寝ぼけた8時半。空のシンクで手を洗って、後ろの藤編みの籠に目をやると、バナナが一本減っている。わたしは「ああ、また寝坊したんだな」と思う。

夫の朝は短い。目を覚ましてから家を出るまでの間にゆとりはないから、寝坊すると朝ご飯を食べる時間がないらしい。

ある日はお茶碗に水が溜めてあって、またある日はパンくずのついた平皿がシンクに置いてある。珍しくお餅を焼いた朝は、丸めたアルミホイルが捨ててあることもある。

わたしたちは朝の時間を共有しない。基本わたしは息子が起きるまで寝ているし、夫は仕事に行く必要があるから。

朝起きてとなりの布団がすっかり冷えていることをさみしいと感じることもあるけど、早く起きられるかどうかは別の問題だった。

 

今朝は珍しく二人きりの朝。息子はいつもよりよく寝ていて、夫は出勤が遅く、わたしは暖房が暑くて、二人で起きた。

あせあせ支度する夫を横目に、わたしは化粧水だけで肌を整えたつもりになって、ゆらゆらと階段を上る。

トイレに行っている間に夫はすっかりサラリーマンになって、紅茶を淹れてくれていた。こないだ買った飴釉のカップに、安いティーバッグは不釣り合いで心地よい。

少しゆとりのある朝。今日何を食べるのかと手元を見ると、夫はなんと柿の種を食べていた。

「ごはんあるのに」「食べる?」「……いらない」

夫の朝は短いけど、自由だ。

 

わたしは出かけていく夫に届くように、ダイニングから声をかける。見守りカメラを見ると、扉の閉まる振動が部屋まで響いたようで、息子は顔を擦って寝返りした。まだ起きない。

カップティーバッグにもう一度お湯を入れたけどもう味はしなくて、わたしは仕方なく息子の朝ご飯の準備をする。

いつもどうりで、ちょっと特別な朝のこと。

息子とわたしたちに優しいあなたへ

ベビーカーの息子を見て微笑んでくれたあなた。
かわいいね、と声をかけてくれたあなた。
触っていい?と聞いて目を輝かせていたあなた。

私たち家族を心配してお祝いの言葉をくれたあなたたち。
お店でぐずる息子を笑わせてくれたあなた。
駅で代わりにベビーカーを担いでくれたあなた。

授乳中にドアの前で待っていてくれたあなた。
息子に会いたいと言ってくれたあなた。
電車で退屈する息子と遊んでくれたあなた。

ワイシャツのボタンを触りたがる息子を許してくれたあなた。
息子と目を合わせてくれたあなた。
バスで騒ぐ息子に笑いかけてくれたあなた。

遊んでいるおもちゃを分けてくれたあなた。
息子を踏まないように気を付けながら歩いていたあなた。

ゆったりとした成長をなにも言わずに見守ってくれたあなた。
時間をかけて息子へのプレゼントを選んでくれたあなた。

狭い道を譲ってくれたあなた。
すれ違いざまに息子に手を振ってくれるあなた。
遠くから目が合った息子を、私に内緒で笑わせようとしてくれたあなた。

もっといえば、心音が聞こえた日におめでとうと言ってくれたあなた。
内診がとっても上手で、余計なことを言わないクールなあなた。

そして息子を取り上げてくれたあなた。産んでから1日眠りこけていた私に代わって息子をかわいがってくれたあなたたち。おいしいごはんを作ってくれたあなたたち。

私の負担にならないようにとあれこれ考えて連絡をくれたあなた。
私に会いたいと言ってくれたあなた。
変わらず接してくれるあなた。私をただの女に戻してくれるあなたたち。

 

息子が産まれるまで、知らない人たちが言う「嫌な思い」や「悪意」ばかりを気にしていた。
でも、いまわたしのまわりは、息子がいなければ知らなかった優しさにあふれている。
道で出会った子どもやその家族に親切ができたいつかのわたしの価値にも、いまになって気が付くほど。

 

息子に優しいあなた。
息子をかわいがってくれるあなた。
息子の成長を喜んでくれるあなた。
母であるわたしや、そうでないわたしを受け入れてくれるあなた。
父である夫や、そうでない夫をまとめて応援してくれるあなた。

 

ありがとう。
あなたたちのおかげで、息子は1歳になりました。

おめでとう。たくさんの人たちの優しさで育った息子。
そのからだに収まらない分は、これから少しずつ誰かに分けてね。

息子の香りを瓶に詰めても

頭のてっぺんは、誰かが持ち帰るマクドナルド。
おでこは久しぶりにベランダで悠々と干したお布団の匂い。
眉間はちょっと香ばしい。押し入れの中みたいな匂いがする。

 

9月に生まれた息子は、その全身をほやほやの温かい香りで包んでいた。春の空気を抱きしめられる形にしたら、きっと息子のように出来上がると思う。

特に眠っているときはその温かい匂いがいっそう濃く感じられて、それはそれは愛おしい。その匂いをかいでいると、誰しもがつい「かわいいね」と言いたくなるのだ。

 

息子がおっぱいとミルクを飲んで眠るをひたすら続ける間に、全身に満ちていた春の香りは、おいしそうな牛乳パンみたいな香りに変わった。

その頃には息子の腕も脚も、香りのままの見た目になった。それを抱く私も夫も、いまに焼かれようとする真っ白いパンの赤ちゃんを思い出した。でも息子の腕や脚は、触ってみると発酵したパン生地に比べてもっとパツパツとしていて、巨峰とか水風船とか、そういった類のものを思わせた。

 

3月に入り、ふよふよにした米がゆを食べられるようになると、我が家の“牛乳パン屋さん”はたちまちシャッターを下ろした。全身をまるっとオーラのように包んでいた甘い香りは散らばって、からだのパーツごとに変化していった。

頭のてっぺんは、誰かが持ち帰るマクドナルド。
おでこは久しぶりにベランダで悠々と干したお布団の匂い。
眉間はちょっと香ばしい。押し入れの中みたいな匂いがする。

 

米がゆと野菜に加えて、肉や魚を食べるようになってからは、息子は全身から給食の匂いを放つ。

給食の匂いは本当に不思議だ。カレーの日も、ジャージャー麺の日も、鮭の西京焼きの日も、からだに染みて家に帰る頃には、みんなおんなじ匂いになっている。

息子のそれも同じで、パンがゆを食べても、細かくしたパスタを食べても、ブリでも豚肉でも、息子にまとわりつく香りは毎日変わらなかった。

 

鼻はちょっと酸っぱい。プレーンのヨーグルトみたいな匂い。

頬はまだ、牛乳パンの匂いがする。すっかり日に焼けてしまったから、焼いたあとのパンみたいだ。

耳はかごうとすると身をよじるのでよくわからない。

目じりにはいつも涙が雪ソリの跡みたいに残っていて、そら豆を茹でたときみたいな臭いがする。

 

口と首は、さっき食べたものの匂いがする。たまに食べかすがそのまま残っていることもあって困るから、あまり鼻を近づけないようにしている。

腕と脚はおでことおんなじ、干した布団の匂い。たぶん、ベビーカーや抱っこ紐から宙へ投げ出して、思い切り干されているからだ。久しぶりに外へ干してもらった布団も、同じような気持ちかもしれない。

お腹の香りは、日に焼けて傷んだ本みたい。お腹は太陽の光にはまだ出会ったことがないはずだけど、きっと日の光に焦がれているうちに待ちきれなくてそんな匂いになったのだ。

 

息子はいまも成長している。生まれたときよりも、昨日よりも、さっきよりももっともっと。

きっと気が付いたら頬の牛乳パンの匂いはなくなって、目じりにしがみついたそら豆みたいな臭いをかぐこともなくなるのだと思う。

 

いまの匂いを閉じ込められるなら、とびきりかわいい缶や瓶に詰めて、きっと死ぬときまで大事に取っておく。「おでこ」「ほっぺ」「おなか」と丁寧にラベリングをして、大事に大事に取っておく。

いつかそういう”香りのタイムカプセル”みたいな技術も出てくるのだと思う。でも、昔保管した香りをいつか開封したとき、私の感想はきっと「こんなんだったっけ?」なんだろうけど。

 

私は絶対にいまの息子の匂いを忘れるから、この文章をタイムカプセルにする。そうしたら、これからエレベーターでマクドナルドの袋を持った人に出会っても、「息子が赤ちゃんのときの頭のにおいだ」って思えるから。

 

いつかキッチンでそら豆を茹でて、息子が「臭い!」と言ったら、「これあなたの涙とおんなじ臭いだよ」って教えよう。